おっちゃん

私の育った家庭には、家族それぞれを本名以外のニックネームで呼び合う習慣があった。私のニックネームは「ねこ」で、それはおそらく「お姉ちゃん」から来たんだろうと思う。母は「カモ」で、由来をはっきりとは覚えていないのだけれど、母自身の記憶によると、「貨物列車」のようにガシガシ頑張っていたから、ということらしい。妹は「くり」。本名は「あやこ」なので、なぜ「くり」になったのかはもはや誰も覚えていない。父はニックネームとして、「おっちゃん」と呼ばれていた。ニックネームなので、母も父のことを「おっちゃん」と呼んだ。

父は14年前に他界した。癌で、手術もできず、最期は自宅で息を引き取った。亡くなる前の数年間、いつか纏めたいと言って、文章を書き溜めていたけれど、構想が壮大で、全く間に合わなかった。

もう動くのもかなり辛くて眠ってばかりの父の枕元に、母は父が集めていつも持ち歩いていた資料のファイルを並べた。5月で、開けた窓からは風に乗って庭のジャスミンのねっとりと甘い芳香が流れ入っていた。

荒い寝息の父の顔をずっと見ていると、だんだん父の顔が分からなくなってくるようで、この顔が目の前から消えてもそっくりの似顔絵が描けるくらい詳細に覚えてやろうと、更に真剣に父の顔を見続けた。白の増えた細い髪。広い額に刻まれた皺。太めの下がり眉。私も妹も受け継がなかった高い鼻梁。乾いた唇。頬に散る無精髭。痩せこけて目は落ち窪んだけれど、父は美しい顔の持ち主だった。

父が亡くなった日の夜、棺の横に敷いた布団で疲れ果てた母は眠り、私と妹は隣の居間で会話をするための会話をぼそぼそと続けていた。

トイレに起きてきた寝ぼけた母が、「あれ?おっちゃんは?」と言ったそのすぐ後、形容しようのない表情になり「あ、」と吐く息で呟いて、そのまま廊下に出て行った。私も妹も何も言葉を発せなかった。

先日母にこの時のことを話したら、そんなことあったっけ?と言って笑った。やるせなくてしまいこんでいた私の記憶は、解き放たれて5月の庭へ流れて行った。庭のジャスミンはあの年以来うまく咲かず、5月の庭にあの芳香は今はない。父の白い棺は最後に庭を通って、愛した家を出て行った。