もともと日記や随筆が好きで、特にあまり小説を読まなくなった最近は、たまに手に取る書籍のほとんど全てが随筆集なことに気づきました。武田百合子や幸田文など、少し前の時代の女性の書く、些細なことをそっと手のひらで掬い上げ愛でるような文章は、なにげなくて正直で、静かに沁み渡ります。そういう文章が好きです。

武田百合子も夫から勧められて日記をつけ始めたのが作家の入口。

別に文章家になってやろうとかいうものすごい意欲ではなく、なんとなく始める、という入口もいいんじゃないか、と思うので、これからは時々、なにげない文章を書いていってみようかと思う次第です。きっと視線の訓練にもなることでしょうから。

いつまで続くか分からないし、しばらくずっと書かないこともあるだろうし、長めの時も短めの時もあるでしょうけど、とあらかじめの言い訳をしながら始めてみます。

2021年6月某日

 

 

 

 

「おっちゃん」

私の育った家庭には、家族それぞれを本名以外のニックネームで呼び合う習慣があった。私のニックネームは「ねこ」で、それはおそらく「お姉ちゃん」から来たんだろうと思う。母は「カモ」で、由来をはっきりとは覚えていないのだけれど、母自身の記憶によると、「貨物列車」のようにガシガシ頑張っていたから、ということらしい。妹は「くり」。本名は「あやこ」なので、なぜ「くり」になったのかはもはや誰も覚えていない。父はニックネームとして、「おっちゃん」と呼ばれていた。ニックネームなので、母も父のことを「おっちゃん」と呼んだ。

父は14年前に他界した。癌で、手術もできず、最期は自宅で息を引き取った。亡くなる前の数年間、いつか纏めたいと言って、文章を書き溜めていたけれど、構想が壮大で、全く間に合わなかった。

もう動くのもかなり辛くて眠ってばかりの父の枕元に、母は父が集めていつも持ち歩いていた資料のファイルを並べた。5月で、開けた窓からは風に乗って庭のジャスミンのねっとりと甘い芳香が流れ入っていた。

荒い寝息の父の顔をずっと見ていると、だんだん父の顔が分からなくなってくるようで、この顔が目の前から消えてもそっくりの似顔絵が描けるくらい詳細に覚えてやろうと、更に真剣に父の顔を見続けた。白の増えた細い髪。広い額に刻まれた皺。太めの下がり眉。私も妹も受け継がなかった高い鼻梁。乾いた唇。頬に散る無精髭。痩せこけて目は落ち窪んだけれど、父は美しい顔の持ち主だった。

父が亡くなった日の夜、棺の横に敷いた布団で疲れ果てた母は眠り、私と妹は隣の居間で会話をするための会話をぼそぼそと続けていた。

トイレに起きてきた寝ぼけた母が、「あれ?おっちゃんは?」と言ったそのすぐ後、形容しようのない表情になり「あ、」と吐く息で呟いて、そのまま廊下に出て行った。私も妹も何も言葉を発せなかった。

先日母にこの時のことを話したら、そんなことあったっけ?と言って笑った。やるせなくてしまいこんでいた私の記憶は、解き放たれて5月の庭へ流れて行った。庭のジャスミンはあの年以来うまく咲かず、5月の庭にあの芳香は今はない。父の白い棺は最後に庭を通って、愛した家を出て行った。

 

 

 

 

 

「おかあさんの庭」

下北半島の陸奥湾に面した古い家に「おかあさん」は一人で住んでいる。
広い庭があり、車道からは手前に庭、その奥に家屋が見える。
フェリー乗り場へ向かう道中、車窓から色とりどりの花畑が目に飛びこみ、写真を撮りに車を停めて降りたのが、おかあさんの庭だった。

庭の9割は花畑、残りの1割程度のスペースに自分が食べる分だけの野菜を育てている。
その時もおかあさんは庭仕事をしている最中で、「写真撮らせてもらってもいいですか?」と声をかけると、「こーんな庭撮るのお?」と高い声で汗を拭きながら立ち上がってくれた。
「ついこの間までもーっと綺麗に沢山咲いてたのにい、今こーんなとこ撮っても」と言いながらも、自分の庭を撮りたいと申し出るよそ者を疎ましくは思わず喜んでくれているようだ。
黄色が一番多い。その次にピンク。それから紫も。
雑然の中に美しさがあるようで、おかあさんの謙遜を聞きながら中腰で何度かシャッターを押す。
直射日光に花びらが光って眩しい。
虻が数匹飛び回っている。
「味噌汁食べてく?」と、いつの間にか横に立っていたおかあさんが聞く。
一人で暮らして長いのに、いつも多く作ってしまう、今朝作った味噌汁がまだ沢山残ってるんだけど、素人の雑な料理で良かったら、と言われて、断る理由は見つからない。

古びたビールケースをひっくり返した急ごしらえの椅子に座り待っていると、お椀になみなみと注がれた具沢山の味噌汁を手渡される。受け取る指に汁が垂れる。庭で採れたじゃがいもとえんどう豆が椀の中にひしめき合っている。芋は大きく切ってあり、これ一杯でちゃんと食事になりそうだ。
東京からこの場所に移り住んで30年。しばらく前にだんなさんを亡くしてからはずっと一人で住んでいる。娘はいるよ。秋田にね。でも娘のとこの世話になるわけにもいかないでしょ。まだなんとか一人でやってけっから。
どれだけ住んでてもね、いつまで経ってもよそ者はよそ者だね、と言うおかあさんは、どうやら近所付き合いはあまりうまくいっていない模様。
でも一人で楽しいよ。庭やってると一日あっという間。
久しぶりの会話なのか、おかあさんの声は大きく、何度も同じことを繰り返しながら話止まない。
せっかくだから記念に、撮った写真をプリントしておかあさんにも送るよ、と言うと、そんなのはいい、いい、こうやって会えてこんな庭、撮ってくれただけでも嬉しいから、と住所も名前も教えてくれない。
何度尋ねても同じ返事なので、そうか、それなら今のこの光景と名前も知らないおかあさんを忘れないでいよう、と思い直す。

発光する庭の、濃いめの味噌汁。まとわりつく虻の羽音。強い日差し。汗の伝う背中の後ろで海は凪いでいる。
初めて食べたえんどう豆の入った味噌汁は、豆の風味が汁に滲み出てとても美味しかった。
今度、自分でも作ってみようと思っている。

 

 

 

 

 

「優しい磯ラーメン」

半島の東側にある、ちょっと出っ張った更なる小さな半島のような場所のその突端に着くと、満開のアロエの赤い花と白い水仙の花が視界を占めるように広がっていた。花々の奥には濃い青を湛えた入り江が見える。ここに向かう間、私たちの車の前を走っていたオレンジ色の路線バスが、海を背にした回転場の停留所で次の発車時刻を待っている。
群生する水仙の花は少しだけ見頃を過ぎている上に平日の午後、この贅沢な場所に私たち以外にほとんど人はいない。写真を撮るのに集中したせいで蒸れたマスクを少し下げると、辺りには可憐な甘い匂いが漂っていた。

岬の灯台まで歩いて戻って来るとお腹が空いていた。駐車場の脇にある古い食堂兼売店の店先に、客が来ることなど全く想定していない様子で日向ぼっこをしながら読書をしているおばあちゃんがいる。「食べられますか?」と声をかけるとびっくりしたように「あんまり色々は出せないんだけど」と呟きながらよっこいしょと本を置き、椅子から立ち上がってくれたのはとても小柄な人だった。
カレーを所望した夫に、ご飯炊いてないのよ、と申し訳なさそうに顔を赤くして、ラーメンなら、と言ってくれるので、二人して「磯ラーメン」を頼む。
薄暗い店内には昭和的な雰囲気の土産物が並び、壁には以前ここを訪れた芸能人の日に焼けたサイン色紙が貼られてある。ほら穴のように静かな店内に、湯を沸かす音や蒸気に混じりだんだんといい匂いが流れてくると、おばあちゃんがお盆に一つずつゆっくりと、磯ラーメンを運んで来る。椀の中央にはなんとサザエが載っている。たっぷりと岩のりとワカメも入った立派なラーメンだ。
少し伸びた麺とシンプルな醤油味のスープがなんだか妙に懐かしく、優しい気持ちがこみ上げる。子どもの頃に食べたのを思い出すようなラーメン。メンマは、ちょっと不思議な味がしたけれど、黙ってそっと食した。

帰りの車の中で夫と、美味しかったね、他では食べられないラーメンだったね、と話す。
でもメンマは多分ちょっと悪くなっていたよね?と私が言うと、夫はウソ?と驚いて、変わった味のメンマだなとは思ったけど、そういう風味なんだと思ってたよ、と笑う。
おばあちゃんにはとてもじゃないけどそんなこと言えなかったからちゃんと食べたよ、と私が言うと、でももしかしたらそれは、言ってあげた方が優しさだったのかもしれないよね、と返される。確かにおばあちゃんがメンマが悪くなっていることに気づかないまま、次にラーメンを作る機会にもまたそのメンマを使ったら、と考えると、私がその時気づいたのに教えてあげなかったのは偽善ということになってしまうのかもしれない。難しい。あのメンマが、私たちに出すことで使い切ったメンマでありますようにと願う。
でもいずれにしろ、やっぱり言えなかったな私には。あの小さいおばあちゃんが、おそらくは久しぶりに来た客のために一人で丁寧に作ってくれた二人前の磯ラーメンに、美味しかったの代わりにクレームを言うくらいなら、その場しのぎの偽善者になることを、私はきっと選んでしまう。弱さ故のその場しのぎの優しさが、私を偽善者にする。