*新しく書かれたものが上に来ます*

 

僕が見た世界 #22

2026.01.03

幼い頃、眠りから覚めて、襖の向こうにある居間からまだ起きている父親と母親の穏やかな話し声が聞こえていて、居間の明るい光とその中にある父親の低い声が白と黒に思えて、僕は居間から差し込む灯りをじっと眺めながら、父親の話している内容よりその親和性のある低い声にじっと聞き耳を立てていた。父親の声音に温かさを感じ僕は安心してまた眠りに戻るのだ。

ある時ふっと襖から差し込む光と父親の温かな低い声を思い出した。その父親は他界し、その声の話し相手である母親は一人残された。母親はあの声の話し相手をしていた頃、自分が一人残されて孤独と漠然とした不安に包まれる日々を過ごすことを想像していなかった筈だ。

僕は父親の声と母親の不安を思いながら、人生とは何だろう?と少し思った。孤独が人生であるなら、何故あの温かさは在ったのだろう。
寂しさや不安というシェアできない根源的な感情の中で、一人死に向かいながらひっそりと息を弱めていく人間は孤独だ。
たった今笑っていたのに、次の瞬間もう二度と会えなくなるのも命だ。そして、僕が終わってもきっと世界は何事もなかったかのように廻る。

消えていくことは静かで、それを受け入れていくことは強さだと思う。
ではこの僕たちの住む世界が存在する一番大きな意味とは何だろう?
それは、在ったのだ、という事だと思う。
父親の声は、温かさは、確かに在ったのだ。

砂漠で風紋を見ていた。そこに風が吹いたら風紋は変わる。在ったはずの形は次の瞬間消えて、また新しい形が現れる。そして、さっきまで在った形はなかったかのように忘れられる。でも在ったのだ。

この世界は在った事の劇場だ。消えてもいい、忘れられたっていい、誰が気付かなくたっていい、でも在ったのだ。

在った、在った、在った、在った、、
それがこの世界なのだ。

 

 

僕が見た世界 #21

2025.09.13

3ヵ月ぶりに西成にいた。
今回は何度も怒られた。
声をかける人声をかける人、皆怒り出すからこれから声をかける人も全員怒り出すのではないかと怖くなり、一時声をかけられなくなった。それでも歩き続けると次第に冷静になっていき、怒り出す人ばかりではなく受け入れてくれる人もいるだろうと聡明な判断もできるようになる。
そうして、辿り着いた人が聾啞(ろうあ)の人だった。

彼は喋れなかったが誠実な人だった。
彼はパンを売っていて、小さな透明のビニール袋の中に揚げパンや食パン、アンパンなんかをぎゅうぎゅうに詰めて地べたに引いた新聞紙の上に並べていた。
僕はパンはいらないが写真を撮らせて欲しくて500円玉を差し出した。
すると彼は500円は多い300円だというような身振り手振りをし、自動販売機を指差し飲料を買ってお金を崩せというようなジェスチャーをする。
僕はそこでカメラを構えた。すると彼は真っ直ぐレンズを見て少し笑んでいた。僕は静かな気持ちになって嬉しかった。
僕はお金を崩さず500円を差し出し、困惑する彼の手に握らせた。そして立ち去ろうとしたら、僕を引き留めパンを持って行けと促す。僕が微笑みながら要らないと言うと、彼は優しく不貞腐れた。

妻の清水コウが言った。
あなたのカラー写真はあなたのピュアで無邪気な元々のあなたの素性で撮っていて、雑踏で撮るモノクロ写真はあなたの患った精神疾患が故の写真群の様な気がする、と。
言い得て妙な言い回しだと納得した。
勿論体は一つだから明確に分離はしていないだろうし、カラー写真にも傷を負った優しさは写っているだろうし、モノクロにだってポジティブな先天的なエネルギーは写っていると思う。
ただ、精神疾患によって僕の中の何かは確実に屈折して、傷を負い、為に生き辛さを抱える被写体の人達のエネルギーを尊いと思い、そう生きている人達の声なき声、喘ぎや囁きを僕はキャッチし、共鳴するようになったのだと思う。
またスナップショットの様な動物になる行為も、何かが屈折したことにより僕を駆り立てていた行為の様な気がする。
素直に真っ直ぐ生きているだけでは得られない、もっと自分の劣等感やそのことを突破して克服する為にどうしても必要な行為だった。
その生きていくために抜き差しならず必要だった切実な呼吸が僕をスナップショットへと駆り立てていた。
簡単に言うと僕は絶望していたのだと思う。自分の恐れを抱く弱さに。
僕はずっと強いって何か考え続けていた。

強いって何だろう?

今の僕にはそれは受け入れることだったり拘らないことだったり、許すことだったりする。
受け入れて手放すこと。

ある人が言った。
愛とは自分が思っている形だけが愛ではないということがある、と。
ただ愛しいだけが愛じゃない、憎しみすら愛なのだ、と。

自分の思っていることだけに拘らず、憎しみすら愛なのだと受け入れて、わだかまっている拘りを手放すこと、それが強さの一つなのだと最近知った。
そういう柔らかさや広さを培えるなら、これからも僕はピュアな人間の匂いを尊いと思えるだろう。
傷を負ったから受け入れ、その中に光を見出す暗さを肯定できるのだと思う。

 

 

僕が見た世界 #20

2025.08.09

小学生の頃、社宅に住んでいた。

千葉家の部屋は206号室、隣の205号室にはS君が住んでいて、彼とは同じ学年の同じクラス、つまりクラスメートだった。

S君とは仲は悪くはなかったが殊更良いわけでもなく、謂わば彼は普通のクラスメート、one of them だった。

S君は小学校5年生の時にお父さんの転勤で引っ越すことになり、僕たちの隣の部屋にはまた違う家族が引っ越してきて、僕たちの生活は特にどう変わることもなく日々は過ぎていった。小学校5年生の時、学年行事で確か林間学校みたいなものに出かけた。楽しかった記憶はあるが、どこに出かけて、どんなことをしたかはもう記憶に無い。ただ、お父さんの転勤で引っ越しをしたS君はその林間学校を本当に楽しみにしていたみたいで、手紙に何度も林間学校の事を教えてね、と書いてきた。僕は正直面倒くさかったので、一応書く手紙の返信にはまた今度話すね、と書いてうやむやにしていた。ある時S君のお母さんが僕の母親に電話をしてきて、その流れでS君が電話口に立ち、僕の母親に「雅人君いますか?」と言ってきた。事情を知っている母親は観念しなさい、という顔で「雅人、S君が雅人君に代わってくださいって言ってるよ!」と僕を呼んだ。僕は観念して電話口に立ち、「久しぶり」と声を発した。電話口の向こうからは快活なS君が「雅人君久しぶり、林間学校の事を詳しく聞かせてくれよ!」と何の悪意もなく本当に楽しそうに僕に林間学校の事を話すようにせがんだ。僕は余りの面倒くささに、もごもごとしていた。するとS君は状況を察したのか「雅人君もしかして面倒くさい?」と訊いてきた。僕は露骨に面倒くさいとも言えずに、まだもごもごしていた。するとS君は、「雅人君僕の事嫌いなの?」とさらに突っ込んだ質問をしてきた。僕は困り果て「いや嫌いじゃないし、面倒くさくもないけど話したくないんだ」と核心を曖昧にしながら、話さずに済ませることだけは貫こうと、話したくないことは伝えた。S君はむきになって、「なんで話したくないの?友達だったら話してくれてもいいじゃん?!雅人君僕の事友達と思ってる?!」と訊いてきた。僕はもう嫌になって「友達だったけどS君引っ越したじゃん?もう終わったんだよ。」と半ば本心で、でも本心にしては強すぎる言葉を吐いた。するとS君は「酷い、雅人君もう僕との関係は終わりだってことだね?!本当に酷いよ、ショックだよ!!」と少しパニックになっている様子で、「わかったよ、もう聞かないよ」と電話を切ってしまった。僕は自責の念と解放された安堵を両方抱えて、項垂れて布団の中に潜り込んだ。

それから数か月後、S君家族が社宅に遊びに来た。僕はその事実を知らないまま、社宅の公園で一人ブランコに乗って遊んでいた。すると向こうから見覚えのある日焼けをして褐色のS君が歩いて来るのを見た。僕は仲違いをしたことも忘れて、「おぉ、S君じゃん、久しぶり!」と無邪気に声をかけた。するとS君は顔を強張らせて僕を無視した。僕は「S君何で無視するの?」とびっくりして聞いたら「僕たちは終わったんでしょ?!」と僕を責めた。そしてそのまま行ってしまった。

僕は「僕たちは終わったんでしょ?!」というS君の言葉を反芻していた。僕はその言葉の響きに最初驚き、寂しさを覚えた一方で、何か強く締め付ける力から解放される自由も感じていた。僕は「終わったんだ」という事を受け入れようと思った。そして、「よし、もう終わったんだ」と頷き、ブランコを降りた。

数分後、S君はまた顔を強張らせながら僕の横を通り過ぎようとした時、ちらりと僕を見た。でも僕は割と自然にS君をスルーした。S君は最初驚いていた。そして、本当に悲しそうに顔を歪め、目がわなわな震えていた。僕はその姿を視界の隅で確認しながらも、もう声をかけることはなかった。

僕は人懐っこい反面、残酷なところがあった。

弱っている人を見ると手助けしたくなり、弱っているところから回復しその事実を忘れて自分を張る人を壊したくなる。

僕はS君を嫌いではない。それはあの時も今も変わらない。

 

 

僕が見た世界 #19

2025.08.09

大学4年生になる直前の春休み、僕は就職活動を控えながら活動に必要なお金が全然ない事から、レギュラーバイトに加え、新しく春休みだけの短期アルバイトに登録し毎朝アルバイトに行っていた。そのアルバイトは都内にある大学の前で大学受験生を待ち構え、受験生達に4月から住むであろう住宅物件のカタログを渡すというもので、各大学に大体3~4人がその登録制アルバイトから派遣され、黙々とカタログを渡すのだ。その日に配布しなければならないカタログの数は決まっていて、渡しきったら終わりになるので、意外に皆真面目に取り組んでいた。

そのアルバイトでは初めましての人や、また会いましたねの人や、気が合う人や、何度も会ってるのに挨拶すらしたことのない人、色々な人がいた。

ある日の朝、いつものようにそのアルバイトに行くと初めましての女性がいて、約2時間のパンフレット配布の間中ずっと話をしていた。そんなことも稀なので、配布が終わってからコーヒーを飲みに行った。すると喫茶店でも何故か話が途切れずに、その人の家に呼ばれた。マッキントッシュのパソコンを買ったから見に来ない?と誘われたのだ。マッキントッシュというワードを初めて耳にして、スタイリッシュだなと思ったのを覚えている。そして家に着くとそこは彼女の実家らしく、親御さんが居ては少し気まずいな、と躊躇する僕の心を読むように、今は誰もいなくて夕方まで一人だよ、と言うのでお邪魔することにした。彼女の部屋に通され、パソコンを見せてもらったらリンゴのマークのノートパソコンで、高そうだなぁと思った。思ったけどそもそもパソコンに全く興味がない僕は、これがマッキントッシュか・・・、と言ったきり黙った。彼女も興味のない僕を責めるわけでもなく機械的に、使いやすいのよ、とだけ言って居間に行ってコーヒー飲もうよ、と言うので後ろに付いて行った。居間には炬燵があり、入っていいか聞くと、勿論、と言って炬燵に電気を入れて自分はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れだした。薄いコーヒーを飲むと彼女は僕を尻目に服を脱ぎだした。僕はそれを横目で眺めながら、テレビを見ていた。彼女は下着姿になって僕を見た。僕も彼女を見たけどまたテレビを見続けた。すると彼女はまた服を着て、何しに来たの?と言った。僕はマッキントッシュを見に来た、と言った。彼女は、帰って、とだけ僕に言って玄関に歩き出した。僕は帰った。

その後、またアルバイトで彼女と一緒になった。お互い何事もなかったかのようにまた途切れることなく話をした。

そしてまた喫茶店に行った。彼女は少し自分のことを話し始めた。「私は精神疾患を持ってて、しょっちゅう自分の腕をカッターで切るのよ。切ると痛いんだけど落ち着くの。以前、妬けちゃうくらい可愛い女の子の前でやっぱり腕を切ったの。気絶するくらい深く切ったら、その子泣きながら「私のせいで切っちゃったの?!」なんて叫びながら救急車を呼んでくれた。でも懲りずに私はまたその子に電話してお茶する気でいるのよね。私には好きな人がいて、その人は行動力があって、いつも目標に向かって邁進するから、カッコいいのよね。私ね、でもその人と寝たのよ。で、寝たら向こうは私を切ろうとするもんだから、私は地の果てまで追いかけるって決めてるの。向こうは私の電話出ないけど、私はそれでも何度でもかけるのよ。あなたも少し病気ね、私分かるの、あなたとは不思議と落ち着くから。ねぇ、あなたは自分の病気をどう捉えてる?私はね、多分そう長い事生きないと思う。何度も自殺しかけてるし、この前もしようとしたの。まぁ生きてるから、死ねてないんだけどね。」そして、また家に呼ばれた。僕はまた彼女の家の玄関を跨ぎ、居間に入った。すると彼女はまた服を脱いだ。僕はじっと彼女を見た。でも何もしなかった。すると彼女はまた服を着て、帰って そして二度と来ないで、と言いながら僕を見送った。カブに跨りエンジンをかけた。ゆっくり動き出し、ミラー越しに彼女を見たら彼女は手を振っていた。

あれから約25年が過ぎた。僕は時々彼女を思い出し、生きてるんだろうか?と思うことがある。元気かな?とぼんやり思い、すぐに元気なわけないな、と自分の思ったことを打ち消す。僕はあの頃喘いでいた。僕はうねりの様なものに吞み込まれ、息継ぎも上手く出来ずにただひたすら耐えていた。つまり彼女との時間の為に生きている感覚は皆無で、だから彼女と何かをシェアしていた感覚もない。何も始まらなかったから、当然終わりもないと思っていた。でも、時々彼女を思い出しては、生きてるんだろうか?とぼんやり思う。

僕は彼女の寂しさを今になって抱き寄せようとしている。

僕の声はきっと彼女には届かない。

でも、きっと手応えだけが全てではない筈だ。

僕は自分の存在の小ささを噛み締めている。

 

 

僕が見た世界 #18

2025.07.28

2010年の6月頃、33歳の僕に遅すぎる相対性の気付きが訪れた。
その気付きが訪れた時の衝撃と動揺は僕には事件だった。
先ず人と目が合わせられなくなった。
目が合わせられないから、おはようもお疲れ様も言えなくなり、自然職場では浮きに浮きまくった。
当時僕は今と変わらず警備員で、当然窓口業務にも支障をきたした。
受付される人も、同僚も、僕の受付を見て引いていた。
どこを見ているかわからない視線で、あたふたしながら裏声で受付されたら多分誰でも引く。
僕の巡回を見て、あれは徘徊だ、という人もいた。
目が見れないから、気合で見ようとすると当時の隊長に「何故睨むんだ?」と怒られた。
誰とも挨拶すらできずに孤立した僕はいよいよピンチを悟り、昔からの腐れ縁の友人に挨拶の仕方を教わった。
人と職場ですれ違う時、上長に敬礼する時、複数人に向かって何かを言わなくてはいけない時、ケースバイケースの挨拶の仕方、話す時の目の置き方、それを夜の公園で教わった。
多分2年くらい生きた心地がしなかった。
それでも仕事には行った。
毎日罵られながら、同僚に虐められながら、関わる全ての人に引かれながら、仕事には行った。

当時の警備員にはアウトロー的な人もたくさんいた。
筋を通せば優しい人、本当に強いから強さを誇示する気など全くない人、更生出来ない輩的な人、色々いた。
僕はとある研究所で使用者から、千葉を外して欲しい、と言われ人員再生工場のとある美術館に異動になった。
そこは、研究所に比べれば仕事の質も穏やかで、まずは人並みに挨拶が出来るようになりたい僕には良い環境だった。
でもそこには幾人かのアウトローがいた。
礼節を以て和と為す僕にはそれほど難しい人たちではなかったが、中に一人だけ悪党がいた。
簡単に言うと良心のない人だった。
彼は誰もいないところで凄むように、「おい千葉君今度カラオケに行こう」と言ってきた。
要はお金を僕に出させて飲み食いしながら楽しみたいのだな、とすぐに悟った。
が僕は断らずに、「構いませんよ」と返事をした。
すると彼はにたりと笑った。
僕は別にビビっていなかった。
行かなきゃ良いだけだ、と思っていた。
すると彼は日取りはまた追って、と言って楽しそうだった。

こんな約束をした数日後のとある朝、僕は宿直勤務の明けを迎えていた。
隊長と二人勤務をしていた僕は警備室にいて、隊長は巡回に出ていた。
すると警備室の外線が鳴った。
受話器を取ると「警察です、そちらの警備員にAさんという人は所属していますか?」
と警察からの問い合わせだった。
僕は「Aは間違いなくこの派遣隊の警備員ですが、」と僕をカラオケに誘った警備員の所属に間違いないことを伝えた。
僕は内心「あいつ何したんだ?」と悪事を働いたのではないかと勘繰りながら「Aがどうしましたか?」
と警察に尋ねた。
すると「死にました」と警察は言った。
僕は驚いて「死んだんですか?」と聞いた。
すると「ええ、死にました」と再び言った。
僕は責任者を呼んで折り返しますので、と言って警察の人の電話番号を聞いて、隊長を無線で呼んだ。

Aは居酒屋で飲んでいる最中突然心筋梗塞になり、そのまま死んだらしい。
それが警察から電話がかかってくる数時間前の出来事で、居酒屋の人は警察を呼び、警察は社員証から身元を特定し僕の勤める警備室に電話をかけてきたらしい。
家族構成などはよくわからないけど、結婚していて、兄弟は不仲で親御さんもまだ健在だと聞いた。

後日、Aの奥さんと、不仲だという兄弟の人が見え、Aのロッカーを整理して帰った。
隊長はご家族に挨拶されて泣いていた。
Aが死んで悲しい、とも言った。

僕が警察からの電話を受けて、Aが死んだと聞いた時、先ず訪れたのは驚きだった。
でもその後訪れた感情は、嬉しさだった。

 

 

僕が見た世界 #17

2025.07.20

僕はまだ淡々とはしていない。
僕の考えていること書くことは、未だどこかでドラマティックでロマンティックだ。

僕は自由律俳句が少し好きで、中でも種田山頭火が好きだ。
以前、蒼穹舎の大田さんと話をしていて一つ気付いた。
僕が言った。「山頭火は心にまで届いた事象を言葉に翻訳したんですね。」
そこで大田さんは言った。「そんなに難しい事でなはいよ、目に飛び込んできたものをそのまま書いているんだと思うよ、だから写真的なんだよ。」と。
視界が澄み切っている人の答えだ。
僕の言っていることは介在する人間体験の錯誤かもしれない。
内側から語ることが真実だと思っている節がある。

又ある時、僕は大田さんに言った。
「僕は写真を見てセレクトする時、写真が持っている明るさの質で選んでいます。写真を見た時のインパクトの明るさです。」と。
すると大田さんは「たぶんそんなに難しい事でもないよ。」と。
そして「写真は記憶だよ。」と言った。
僕の方法だと日によって見え方が違うジレンマがつき纏う。
僕はきっと心のフィルターを通過させないと真実には至れないと思っているのだろう。
何故なら、僕が最も大切にしている事は心の深さだからだ。
深さを追う余り、叙情体験を複雑にしているのかもしれない。

そしてまた別の折。
僕があることを大田さんに話した。
A君がBさんにダメ出しをされていた、というような他愛もない話だ。
すると大田さんは「なぜもう一人の自分を作ろうと思うのかな?」と端的に言った。
そして「他人と自分とは違うんだから。」とも言った。
確かに僕たちは他者を自分と同じだと思うから比較したり、嫉妬したりする。
あらゆるネガティブは「自分と同じ」という視点から始まるかもしれない。
そもそも、他者は言うまでもなく自分とは全く違うから他者だ。
比較しなくても良いのだ。
負けたくない、と思う必要もないのだ。

大田さんの物言いには感情の痕跡がない。
感情がないわけではない。
そうではなく、起こる現象がはっきり見えていて、はっきり見えたままを話すのだと思う。

大田さんは精神だと思う。

 

 

僕が見た世界 #16

2025.07.06

2002年3月のある夜、僕は「明日死のう」と思って眠りについた。
朝起きて僕は雨戸を締め切った真っ暗な部屋で、石油ストーブの緑色のランプの明滅をじっと見ていた。
気が付いたら夜になって僕は一つ気づいた。
「死ねない・・・。」
その瞬間だった、緑色のランプで辛うじて許されていた視界が突如、真っ暗におちた。
その闇は文学性の欠片もない、残酷なまでの黒だった。

僕はあの暗闇からそれからの人生を始めた気がしている。

 

僕は少年時代サッカーをやっていた。
小学6年生の頃には川崎市の選抜チームにも入り、全日本ジュニアユースの監督に「全日本の合宿に参加してみないか?」と誘われたりもしていて、簡単に言うと身体的にも精神的にも筋肉質で、早い話が侘び寂びのないイージーな少年だった。
そして、その気質は中学・高校と引き継がれ、憂鬱とは無縁のお馬鹿な思春期時代を過ごした。
その少年とも青年ともつかない思春期時代に、大学受験に失敗した浪人時代を過ごすのだが、その時に本に出会い僕の人生は一変する。
お馬鹿な僕が精神と出会ってしまったのだ。20歳そこそこの青年には精神は重すぎて僕は2~3年でノイローゼになる。
僕は自分を含めたこの世界を突き動かす力学が知りたかった。
どんな力学の元、僕たちは生きているのだろう?と本気で考えていた。
今から考えれば、僕は何故生きたいと思うのだろう?とその理由や根拠を言葉で言い表したかったのだろうけど、僕には無理だった。
ビッグバンを想像した。そこに全てがある気がしたから僕は、折に触れ何かの理由を答えなければならない局面ではいつも「ビッグバンだから」と答えた。
一見ユーモアに溢れているようで、ビッグバンと言葉にしながら、その言葉が僕の心臓の鼓動とは乖離していくようで、苦しかった。
そして気が狂れていく自分を抑えきれずに、自宅から夜の公園に逃げ出して頭を抱えながら誰か助けてくれと嗚咽した。

そしてある夜、僕の喘ぎは臨界点を迎え、僕は負けた。
僕は無力だった。世界に対してあまりに無力で、僕は死のうと思ったのだ。
でも死ねなかった。死ねないという事はあの圧倒的な無力感を携えたまま生きなければならないという事だ。
無力だから死にたかったのに、無力のまま生きなければならないと悟ったときに訪れた暗闇。
あの暗闇は、間違いなく絶望だった。

絶望はそれでもその後の僕に最高の贈り物をしてくれていたことに僕は最近気づいた。
あの絶望は僕の最も深い井戸の底に傷を刻印したのだ。
僕の心には無力の象徴である深い傷が生まれた。

僕という存在を僕足らしめているものは傷や悲しみだ。
傷があるから束の間人と繋がりたいと思う。
僕は孤独だ。でもだから写真が撮れる。深く傷ついた人にしかわからない優しさで、深く傷ついた人にしかわからない微笑みを交歓するのだ。
ストロボ一閃、照らされた顔から共鳴を感知し、そしてその瞬間僕はまた自分の人生に帰る。
必ず孤独で終わる共鳴に、僕は魅せられ、それを求め、だからそこに僕の人生があるのだ。
写真を撮ることに自信なんてない。
僕には幸運なことに才能がない。
才能がない以上、人として被写体の前に立たなければならない。
人として立つ以上、僕は常に移ろう不確定な存在だ。
常に移ろいながら、ただそれでも共鳴を求める一心で今日もどこかの雑踏で人を探すのだ。
自信なんて最低だ。
自信を最低だと思える最高の人生を送れるのは、あの時絶望したからだ。

絶望がもたらした傷は、僕を幸せにした。

 

 

僕が見た世界 #15

2025.06.25

大阪・西成に通っている。

先日西成を歩いていると足が奇形の60歳前後の男性が向こうから歩いてきた。
通り過ぎる時、男性は僕に向かってべぇーっと唾を吐いた。
驚いた僕は唾をかけられた足元を確認し、男性に「何するんだよ?!」と怒った。
すると男性は「撮るんじゃねぇよ!」と息巻いた。
首からカメラをぶら下げた僕は「撮ってねぇよ」と返した。実際に撮っていなかった。
すると男性はまた「撮るんじゃねぇよ」と言うので、「撮ってねぇし、撮ってねぇ人間に確認もしないで唾なんか吐くんじゃねぇよ」と僕は言った。
すると男性は「紛らわしいんだよ」と言った。僕は呆れながら、「唾かかったか?!」と訊くと「知らねぇよ」と男性。
「唾吐いたのあなただよな?!知らねぇことないだろ、大体紛らわしいってなんだよ、こっちはただ歩いてただけだろ?!」と僕が言うと、
「紛らわしいことすんじゃねぇ」の一点張り。僕は段々冷静になってきて、「わかったよ、わかった、悪かったよ」と折れた。
すると男性は「何に対して謝ってんだよ、やっぱり撮ったんじゃないのか?!」と言うので僕は「紛らわしい感じで悪かったって言ったんだよ」と穏やかに言った。
すると男性の様子も変わった。「俺も唾なんか吐いて申し訳なかった」と謝ってきた。「おじさんさ、恨みのない人と遺恨を残すのも嫌だから和解しよう」と僕が提案すると男性も「わかった、和解しよう」と言った。僕は和解の印に握り拳を作り男性の前に突き出した。すると男性も握り拳を作り僕の握り拳にぶつけた。
「おじさんごめんな」と言って去ろうとすると男性も「俺も悪かった」と言った。

男性と別れて少し歩いて僕はいみじくも理解したように思う。
僕が何故この街を訪れるかを。
さっきの男性も、この街で僕が撮らせてとお願いする人たちも、皆深く傷つきながら生きてきたのではないだろうか?
深く傷ついた人にしかわからない何かをシェアしたくて僕はこの街を訪れるのかもしれない。
傷を労わるように、写真を介してお互いの尊厳を認め合い、微笑み合うのかもしれない。

僕が写真でやっていることはたった一つ、真っすぐ被写体の人達の前に立つことだけだ。
才能で撮るのではない、人間として立つのだ。
その時、自然に笑ってくれたら僕は本望だ。
写真と僕自身がピタッと一致したら僕は本望だ。

 

 

僕が見た世界 #14

2025.05.24

高校生の時、度々カラオケに行った。
そして一度だけ歌い逃げをしたことがある。
つまり、金銭を払わずに店から逃げ出したのだ。

その日、何故か悪友の一人が突然バックレたいという趣旨のことを言い出した。
僕を含め総勢4名の悪ガキたちはへらへら笑いながらその突拍子もない申し出に同意し、一人ずつ順に部屋からフェードアウトし、外の集合場所に集まって大笑いしながら帰った。

それから幾ばくかの月日が経ち、歌い逃げをしたメンバーとは別のメンバーとまたそのカラオケ屋に歌いに行った。
受付で店長が僕の顔を見ると、「ん?」と何かに気づき、「あ!!!」という顔になった。
実は僕は気づかれないでいたかったわけではなく、今回謝罪に訪れていたのだった。
だから、店長の僕を見た時のリアクションは僕には好都合であった。
店長は「あ!!!」とはなったが僕に対しては何も言ってこなかった。
僕たちは自然に部屋に通され、僕が以前このカラオケ屋で歌い逃げをした事実を何も知らないこの友人たちは無邪気に歌い始めた。
僕も何曲か歌った。体が温まってきたところでおもむろに部屋を出た。
友人達には何も言って行かなかった。皆きっと千葉はトイレかなくらいに思ったと思う。
そして僕は受付に行き、その奥にある部屋をのぞくとモニター監視をしている店長がいた。
僕は半分開いているその部屋をノックした。店長はこちらを見た。見て「ぎょっ」とした顔になった。
僕は「入っていいですか?」と尋ねた。店長は姿勢を直し、「どうぞ」と言った。声が少し強張っていた。
「僕が分かりますか?」と僕は言った。店長は「以前お金を払わないで帰った人だよね?」と言った。
僕は頷き、話し始めた。「すみません、ちょっと聞いてもらっても良いですか?僕は以前このお店で歌い逃げをしました。
そして実はそのことをずっと悔いていました。人数がいて気が大きくなってあんな行動に出たけど、一人になって後悔しました。
今日はそのことを素直に告白して、謝罪したくて来たんです。許されると思ってません。すみませんでした。」
店長は神妙な面持ちで僕を眺めていた。そして、「怖くなかったの?」と僕に尋ねた。僕は「怖かったです」と言った。
そして続けて「でも、自分のしたことなので先ずは謝らなくてはならないと自分に言い聞かせて、勇気を出して今日この場に来ました。」
と言った。店長は穏やかな顔をしていた。そして、「あんなこともうしちゃ駄目だよ」と優しく僕を叱った。
僕はもう一度頭を下げ「すみませんでした」と声を絞った。すると店長は「ありがとう」と言った。
そして僕は財布を取り出し、「お金払わせてください」とお願いした。店長はびっくりした顔をして、「いいのかい?お金取って?」と聞いてきた。
僕は「取ってください」と言った。確か金額は¥5000強だったと思う、僕はその金額を支払いもう一度深々と頭を下げた。
すると店長の目には少し涙が溜まっているようで、目の奥が赤くなっていた。
店長は「これからも遊びに来なさい」と僕を赦してくれたようだった。僕は「勇気を出してよかった」と言ってそのモニター監視の部屋を出た。
僕は何事もなかったかのように部屋に戻りまた歌い始めた。
そしてこの話は誰に話すこともなく、きれいさっぱり忘れてしまった。

時を経ること30年。
僕はつい最近何故かわからないが、妻の清水コウと自宅の部屋で団欒をしていた時に、ふと店長との時間がフラッシュバックした。
そして今まで書いたことを清水に話して聞かせた。
そして、「店長の部屋を出たっきり全く思い出すことなく、たった今思い出したんだ」
と僕が言うと、清水はしげしげと僕を眺め、「異常だよね」と端的に核心を突いた。
清水が言うには、「人生を変えてしまうようなエピソードを誰にも話さないどころか、忘れてたってもう異常よ」とのことだった。

僕は何故忘れていたのかちょっとだけ考えてみたけど、この出来事は僕にはそれほど大きなことではなかったのだろう。
僕にはきっとそれどころではない精神的な事件が山ほどあったのだと思う。
僕には大したことではなかった・・・、そう思うと可笑しみが込み上げてきて僕は「はっはっはっはっは」と歯を見せて笑っていた。

 

 

僕が見た世界 #13

2025.03.20

小学3年生の時だったと思う。
近所の友人達と近所の公園で遊んでいたら、その友人達のうちの一人のお父さんが遊ぶ僕たちにアイスクリームを差し入れてくれた。
汗びっしょり掻いて遊んでいた僕たちにはこれ以上の差し入れはなく、本当に嬉しかった。
翌日も同じメンバーと同じ公園で遊ぶ約束をしていたから、僕は自分の父親に公園で遊ぶ僕たちにアイスクリームを差し入れてくれないか?とお願いをした。
すると父親は快諾してくれた。そこで僕は更なる注文を付けて、午前と午後と合わせて2回差し入れしてくれるようにお願いをした。
父親は食べ過ぎだよ、という顔をしながらもまたもや快諾してくれた。

翌日。
快晴。

公園で遊ぶ僕たちはまた汗を搔きながら走り回っていた。
僕はみんなには父親の差し入れは内緒にしていたから、いつ父親が登場してアイスクリームを差し入れてくれているか気になってそわそわしていた。
すると背後から「雅人!!」と僕を呼ぶ声がした。
振り返るとやはり父親で、手にはアイスクリームの入ったビニール袋を携えていた。
僕は快哉を上げ、みんなを呼びアイスクリームを振舞った。
みんな喜び、おいしく食べた。

それからまた僕たちは遊びに興じ始めた。

先ほどの休憩から1時間くらい経過していただろうか、また背後から「雅人!!」と呼ぶ声がした。
振り返ると矢張り父親だった。
そして手にはビニール袋。
まさかと思ったら2個目のアイスクリームだった。
まだ1個目の消化も終えてない。

午前と午後に分けて届くはずだったアイスクリームが午前の内に2個届き、僕は困惑していた。
それでも父親は悪びれもせず、「さぁ食え」とアイスクリームを差し出す。

僕は遊びを止めて、みんなに2個目のアイスクリームを配った。
皆一様に困惑していた。
それでも全員気を使い、2個目のアイスクリームを食べ始めたが、一人が「食べれない」と突き返してきた。
するとみんなも僕も、僕も、と僕に突き返した。
そして、2個は多いと吐き捨てて、皆遊びに戻ってしまった。

僕は突き返された10個ほどのアイスクリームを父親に返した。
すると父親は「お前が2回持って来いって言ったんだろう、食えよ」と言ってきた。
僕は顔を真っ赤にしながら、「ごめん要らない」と呟いた。
父親は怒って帰ってしまった。

落ち込んだ気持ちで自宅に帰った。
父親はまだ怒っている様子だった。
怒っている父親に、「あのアイスどうしたの?」と訊ねたら、「捨てた」と言ってもう一度「お前が2回届けろと言ったんだぞ」と怒った。

幸せな気持ちになる筈だった。
幸せを作為で企てた代償だったかもしれない。
偶然は尊いのだと思った。

 

 

僕が見た世界 #12

2025.03.20

生まれてから小学校3年生の夏まで、北海道の苫小牧市に住んでいた。
小学校3年生の時に父親の転勤が決まり、今度は神奈川県川崎市の鷺沼に引っ越すことになった。

僕は北海道時代、幼稚園の頃からアイスホッケーをやっていて、小学校3年生から入れる小学校のアイスホッケー部に入部し、活動を始めた矢先のことだった。
毎朝5:30に起きて、6:00~の朝練に参加し、走り込みの練習をしていた。
ようやく部の雰囲気にも慣れていたので残念だったけれど、転校というものもしてみたかったので僕は引っ越すことがそんなに苦でもなかった。

夏のある日、部が僕の為にお別れ会を開いてくれた。
みんながよくしてくれるし、とても楽しい会だった。
そしてその会の終わりに、「では転校する千葉君より一言」と言われ、僕はみんなの前で少し話すことになった。
何を話したかは覚えてないが、僕はみんなの前で泣いた。
泣きながら、今までありがとうございました、と話した。
でもこの涙は噓泣きの涙だった。
何故わざと泣いたかというと、お別れの時は泣くものだ、と思い込んでいたからだ。
泣きながら、上手に泣けて嬉しいのと、自分のしている事のあざとさから少し心苦しいのとで複雑な心境になりながら、わんわん泣いた。
泣かれたみんなはびっくりしていたけど、でも嘘泣きは嘘だとばれているような雰囲気だった。

翌日幼い頃いつも一緒にいたH君から、「お前ら親子はよく似てる」、と言われた。
「お前の母さんも親同士のお別れ会で最後泣いたらしいよ、うちの母さんがあれは嘘泣きだ、って言ってたよ」
と揶揄されたのだった。
僕はいたたまれない気持ちになった。

時は過ぎて、中学3年生の時、僕はクラスメートのGとよく一緒に遊んでいたのだが、母親もGのお母さんと仲良くなり、Gのお宅にお邪魔してお酒を飲んだりしていた。
僕は思春期の頃よく笑った。
大声で本当に楽しそうにけらけら笑う少年だった。
ある時、またいつものように楽しくて大声で笑ったら、Gがやはり揶揄するように「本当にお前ら親子はよく似てる」と言った。
どうやら母親もGのお宅で大声でけらけらよく笑っているらしい。

僕と母親はどんな環境でも、愛されながら憎まれてきた。
千葉といると楽しいけど、千葉を見ているとなんかむかつく。
というところだったろうと思う。
みんなが何となく大切にする和を僕たち親子はよい意味でも悪い意味でも壊してしまうのだと思う。

今僕は母親と山梨県の甲府に月一で通っている。
お互いに長年の不摂生がたたり健康を害していて、甲府にいる漢方医のところまで通院しているのだ。
中央道を車で走りながら、甲府に行くと立ち寄る魚が美味しい小さな料理屋で僕たちはいつも昼食を摂るのだが、
今日は何を食べようか?などと話をしているときに母親の横顔を眺めながら、僕はここから生まれたんだよな、
と不意に思ったのだった。
思いながら、母親との歴史を何となく想起し、顔をまじまじと見て「俺たち顔が似ているらしいよ」と母親に言った。
そう言った時に、似ていると揶揄された二つの出来事がサーっと思い起こされて、しばし僕は自分の中に埋没した。

僕と母親は似ているのだ。
昔強かった母親も、今は70を超えて僕の方が支えていることが多いような気がする。
話をしていると頑固でヒステリックな時もあり、辟易することも多い。
でも、お婆ちゃんになっていく姿を見ているとかわいいとも思う。
昔強かった分、今の弱さが愛おしい。

母親を愛おしいという自覚は少し悔しさが滲む。
母親とは確執もあったから。

「俺たち顔が似ているらしいよ」
と言った時、確かに苦痛が伴った。
何故なら、あの時僕は母親を許すことになったからだと思う。

 

 

僕が見た世界 #11

2025.01.08

小学校4年生の夏休みの課題を昆虫採集にしようと張り切っていた。何故なら、偶々訪れたスーパーに昆虫採集作成キットなる、死んでしまった昆虫の腐敗を止める薬液と注射針がセットになった商品が売っていて、僕は飛び付いたのだ。担任の先生にも大風呂敷を広げ、皆が僕の昆虫採集を楽しみに夏休みに入って行った。僕は命懸けで昆虫採集に取り組む約束をしたのだった。
夏休みに入って、しばらく昆虫採集のことは忘れていた。昆虫の王者カブトムシの雄と雌、カブトムシの右大臣・左大臣のクワガタ雄と雌、花と同じくらい美しいアゲハチョウ、僕の頭の中では既に成功していたが、昆虫をどう工面するかは深く考えていなかった。あったのは昆虫採集作成キットのみであった。夏休みが終わりに近付いてきたが、僕は全く焦らなかったし、実は面倒くさくなってしまっていて、任意の提出物である昆虫採集はやめようと思い始めていた。僕は元来、他者の期待を裏切ることに全く躊躇いがなかったし、僕のことに関しては僕自身がわかっていれば良かったのだ。そうして昆虫が1匹も採集出来ずに9月1日の登校日がやってきた。担任の先生は僕を見るや否や、昆虫採集は進んでいますか?と言ってきた。咄嗟に僕は やりませんでした とは言えずに、明日持ってきます、と言って下校した。
さてどうしよう、と思案したが先ずは昆虫がいなければならない、と思い立ち昆虫を捕まえに行った。夕方までに捕らえた釣果は社宅にひっくり返って死んでいたカナブンと蛾だった。その時点で華はないことが確定していたが、腐敗を止める為の注射をカナブンに打とうとしたら、針がポキっと折れた。あらゆることを断念して、家に転がっていたお菓子の箱にカナブンと蛾を虫ピンで刺して、刺さった針は菓子箱の裏面から飛び出ていた。
翌日、学校で昆虫採集を提出したら、皆が僕の箱に群がって、大笑いしていた。先生はガッカリした様子で、何これ?と聞いてきた。僕は痰が少し絡みながら、昆虫採集です、と言った。同じく昆虫採集をして来た女子がいて、千葉くんには絶対敵わないから、私断念しようかと思っていたんだよ、と言った。その女子は綺麗な蝶の標本を作っていた。最後に先生に言われた。頑張って出来ないなら、仕方ないけど、千葉くんの作品は頑張ってないし、何というか汚くて少し臭いがする、と。早い話が腐敗が始まって臭かったのだ。

僕は提出を取り下げてその昆虫採集を持ち帰って、処分の方法も分からずに、自宅の勉強机の横にあるフックにトートバッグに入れたままぶら下げていた。それから数日、僕は段々とそのトートバッグが怖くなっていた。死んでいる生き物への畏怖だと思う、僕はその重たい恐怖を抱えきれずに、ある日学校から帰るとすぐにそのトートバッグを中身ごと社宅の暗がりに捨てて一目散にその場から逃げた。すると、10分後、自宅のインターホンが鳴った。母親が何か謝っているのを見て、来訪者が帰ってから どうしたの? と聞いた。
すると母親は怒りながら少し笑っていて、雅人、昆虫の死骸が怖くなって、捨て方も分からずに、この社宅に捨てたんじゃない?と聞いてきた。
正にその通りだから、そうだと答えると母親は、命に触れたね、と言ってこの箱は供養しておいてあげる、と言った。これで僕のこの夏の課題が終わったのだった。

 

 

僕が見た世界 #10

2024.12.08

幼い頃、スズガエルというカエルを飼っていた。
僕は物心ついた頃から大の生き物好きで、ミヤマクワガタや祖父に連れられて行った縁日で買ってもらったカブトムシ、北海道苫小牧市にある北大の演習林で捕まえる鮒やカエルやカジカ、挙げればきりがないけれど、とにかく僕はいつも自然の中にいて、何かを捕まえていた。
ある時家族で行ったサクランボ狩りで僕は生まれて初めてアマガエルを見た。小さくて愛らしくて、僕はサクランボそっちのけでアマガエルを追いかけて捕まえていた。意気揚々と4匹のアマガエルを捕まえて、僕は狩りで充足した自分の体を全身で感じながら、愛らしいアマガエルを見つめていた。当然家に持ち帰り飼う気でいた僕に父親が、「帰るからもう逃がしなさい」と言った。
当然持ち帰るつもりでいた僕は食い下がった。が、家に持ち帰る入れ物がない、という理由で僕は捕まえたアマガエルを放すしかなかった。
悔しいのと、悲しいのとで僕は帰り道、途方に暮れていた。

こんな記憶があったから、とある日曜日に訪れたスーパーでカエルが売られていた時は快哉を上げた。
僕はそのカエルのディテールも見ぬままカエルだという事実に我を忘れて喜び、両親にひたすらお願いし、なんと飼うことが許された。
許された直後、僕はカエルの全身を隈なく見て目を疑った。なんとカエルのお腹部分がオレンジ色と黒色のまだら模様で、今まで見たものの中で最もグロテスクな態様をしていたのだ。本当のことを言えばこのまだら模様を認識した瞬間、僕はカエルを愛せないことを悟っていた。
そして、実は両親もカエルのお腹部分の模様に驚いていて、「雅人、本当に飼うのか?」と訊ねた。僕は全てのことを見て見ぬふりをし、コクっと頷いた。こうして僕のスズガエルの世話が始まった。倉庫の一角に大きな虫かごが置かれ、その中にスズガエルはまだら模様をたたえながら、いた。
僕は毎日の餌やりが苦痛でたまらなかった。スズガエルを可愛がるどころか、見るのも憂鬱だった。どれくらいの期間、餌やりに行っていただろう、僕はある時両親にばれないようにあることを決行した。それは虫かごの蓋を少し開けておく、というものだった。僕はその少し開けた隙間からスズガエルが逃げてくれることを期待した。そしてふたを開けた翌日、恐る恐る倉庫に入ってみたら期待通りスズガエルはいなかった。
僕は再び快哉を上げた。よし、もう見なくて済む!と心が晴れた。
両親にはスズガエルが逃げてしまったことを話し、晴れてスズガエルと無関係になった。
無関係になってある時ふと、でもカエルはどんこに行ったんだろうな?と思った。実はもしかしてまだ倉庫の中にいるんじゃないかな?と考えた。
なぜなら、逃げた日、倉庫は閉まっていたし、開けているときに逃げたらいくら何でも気付くんじゃないかな、と思ったのだ。
それで倉庫にしまってある自転車だの、雪かき用のシャベルだのを外に出し、倉庫の中を探した。すると、奥の方に黒い固形物が目に入った。
手に取ってみると、それはスズガエルがからっからに干からびて真っ黒になった死骸だった。

 

 

僕が見た世界 #9

2024.10.21

多分誰もが自分になろうとする。
名前を得て自分になるのだ。
でも、僕の体質は少し違う。
僕は名前を捨てたい。
そして、写真になりたい。

では僕が自分を寄せたい写真とは何だろう?
実はその答えはまだ僕にはないのだ。
なりたいのにそれが何か分からない。

匿名的であることはわかる。
つまり特別扱いされないものだ。
そして、取り出そうと思えばいつもそこにある。
スマホの液晶の中に、瞼の裏に。
また、何かの折に僕をたまらない気持ちにさせたり、寄り添ってくれたりする。
写真は記憶であり、像を持つエネルギー体なのだ。
だから、意味の世界から自由で毅然とそこにある。

多分僕は名前を得たからと言って、実体を得るとは考えていないのだ。
多分僕は”実”が欲しいのだと思う。
多分それが僕には本当のことなんだと思う。

今すぐ答えが欲しいわけでも、得られるわけでもない。
多分、得ようとしては駄目だと思う。
浴びるのだと思う。
味わおうと浴びた時、気が付いたら受け取っているのかもしれない。

 

 

僕が見た世界 #8

2024.08.16

小学生の時、H君という口唇裂のクラスメートがいた。
当時僕はその口唇裂を先天性の症状とは全く知らずに、ある級友からあれはダンプに轢かれたからああいう形状の口元になってしまったんだよ、と吹き込まれ、僕は完全にそれを信じて寧ろ、「H君痛かったろうなぁ」などと慮ったりしていた。

ある時、それほど仲が良かったわけじゃないH君の親友に、一緒にH君の家に行かないか?と誘われた。
その親友はN君と言って、大人しい目立たない少年だった。僕は無邪気に「いいよ」と答え、一緒にH君の自宅にお邪魔した。
N君にH君のお母さんを紹介された。はきはきしたきっぷの良さそうなお母さんで、怒ると怖そうだった。

H君のお母さんは僕たち3人に焼きそばを作ってくれて、それを食べている最中にN君が僕に目配せをした。
目配せがどういうものかというと、事前にN君は僕にH君のお母さんに会ったら、「H君はダンプに轢かれて口がおかしくなってしまったの?」と訊く様に僕にお願いをしていたのだ。僕は「何故そんなことを訊く必要があるのか?」と尋ねたら、N君は「そうするとH君のお母さんは喜ぶから」と言うのだった。僕は気が進まなかった。そんな中、N君からのGOサインが出て、僕は躊躇った。
僕が言わずにもじもじしていると、N君ははっきりとした小声で、「早く」と急かした。
僕は意を決して、「H君はダンプに轢かれたから口が変形しちゃったの?」とH君のお母さんに訊いた。
お母さんはみるみる顔を鬼の形相にし、顔色は赤黒く変色し、「ふざけんじゃねぇよ!!!」と怒鳴った。
僕は怖かったというより呆気にとられてしまった。僕は本気で怒った大人を初めて見た。殺される、と思った。
そして「てめぇ何言ってるのかわかってんのか?!」とまた怒鳴った。そして「なにこいつ、本気で殺したい、H!こいつ本当に友達なのか?!」とH君に詰め寄った。するとH君は「違う、こんなやつ友達じゃない!」と言い切った。
僕は訳が分からずにN君を見ると顔を伏せてしまいこちらを見ない。H君のお母さんは「なんでそんなことを言うんだ?!」と詰め寄って来たので、正直に「N君にそう言うように言われた」と話すと、N君は「そんなこと言ってない!!!」と突っぱねる。
H君のお母さんは「兎に角Hに謝ったら帰って。そして二度と来ないで。」とまくしたてた。僕は訳が分からずに「ごめんなさい」とだけ言い残してその場を後にした。するとN君が僕を追いかけてきて「ごめんね」と言ってきたので、なぜあんなことさせたのか尋ねると、もごもご何か言っているが要領を得ないので「僕、N君に何かした?」と訊いた。するとN君は深く頷いて「うん」と言った。

帰り道、僕はN君に何をしてしまったのか考えてみたが、一向に答えが出ずに、次の日にはH君の家での出来事も忘れてしまった。

翌日、登校の時校門をくぐるとN君が突如姿を現し、顔を見るとニタニタ笑っている。
でも僕は前日の出来事を既に忘れてしまっているので、いつも通り「N君おはよう」と言ってN君の脇を通り抜けようとするとN君が僕を捕まえて「ねぇ、僕のこと眼中ない??」と訊いてきた。僕は「そんなことないよ」とN君の言葉を打ち消しながら、彼に全く興味を抱いていないことには気付いていた。多分僕のムードからその事実がN君に伝わった。その瞬間、N君はわなわな震えてうな垂れてしまった。

 

 

僕が見た世界 #7

2024.08.16

中学3年生だった。

同じ中学の仲の良かった男女数人で花火をしようという事になり、近所の公園に集まり花火をしていた。

持ってきた花火もし終わり、皆で歓談していると、公園の向こうの方ではしゃぐ若者がいた。

その人たちはただはしゃぐのではなく、ロケット花火を無秩序に火をつけては飛ばし、火をつけては飛ばし、と繰り返していた。

うるさかったので、僕は「うるせぇよ」と声を放った。するとそのうちの一人がこちらを睨み、どこかへ走って行ってしまった。

こちらのグループのHが、「千葉やべぇよ」と言って震えている。僕は「大丈夫だよ」とまた皆で歓談を始めた。

すると重たいエンジン音が向こうからし始めた。ウオンウオン唸る車のエンジン音がさらに近付き、公園の前で止まった。

すると車から木製のバットを持った人が怒鳴りながら僕らの元へやってきて、「うるせぇって言ったのは誰だ?」と喚いた。

それは僕だったので「僕です」と名乗り出たら、その人は僕を引きずり回し、「調子に乗ってるんじゃねぇよ」というようなことをまくしたてて、着ていたTシャツがびりびりに破れるくらい、引きずり回した。

そして、黒いステッカーを眼前に据えて、「いいか、調子に乗るんじゃねぇよ」と言って唾を吐き、またウオンウオン唸る車に乗り込み、どこかへ消えた。ステッカーには地元で有名な暴走族の名前が記してあった。

Tシャツがボロボロの僕は顔を赤らめて、「ごめん、みんな、空気悪くして」と笑った。

すると皆も大丈夫か?と声をかけてくれた。

後日、花火をしたメンバーの一人の女子に、「カッコ悪くて恥ずかしかったよ」と話したら意外な答えが返ってきた。

「千葉君、恥ずかしくないよ、勇気あるなぁって思った」と彼女は言って、更にこう言った。

「だって本当にうるさかったし」。

試合に負けて勝負に勝った、と思った。

 

 

僕が見た世界 #6

2024.08.16

小学生高学年の頃だったと思う。
近所の書道教室に通っている子供たち男女数人で、その書道教室で鬼ごっこなどをして遊んでいた。
書道教室は民家で、コンクリートの階段を上ったところに玄関があった。
僕はその階段の上で、そこに植わっていた松の木から葉を抜き取り束ねて遊んでいた。
その時同じ集団のある女の子が手すりに摑まりながら階段を駆け上がってきた。
そして手すりに自分の体を完全に預ける格好で階段にいる僕に話しかけてきた。
僕はその子と会話をしながら手に持っていた松の葉で、手すりに体を預けそれを支えている彼女の手の甲に、松の葉をチクリと刺した。
彼女はびっくりした顔をして、そのままスローモーションを見ているみたいに階段から落ちていった。
彼女は背中を階段に強打し、そのままうずくまって起き上がってこない。
周りにいた子供たちはすぐに大人を呼びに行き、彼女はそこにいた大人の車に乗り病院へ運ばれた。
書道教室の先生も慌てて玄関に出てきて、事情を子供たちに聞いた。
でも誰も答えられなかった。
つまり、この件の真相を知っているのは僕とその子だけだったのだ。
その為、彼女が階段から落ちた理由はバランスを崩した事による転倒として受け止められることになった。

それから2~3時間後、夕刻に彼女は自分の親の車に乗って書道教室に帰って来た。
打撲はあるものの、骨折などの大事には至らずに済んだとの事だった。
皆で彼女を囲み、大丈夫か?などと声をかけたりしていた。

皆はそれぞれ一人ずつ彼女と言葉を交わしたが、僕の順番が訪れた時、
彼女は真っすぐ僕を見て、「大丈夫だから」と言った。
僕は「何が?」と言った。

僕は自分の松の葉が原因で彼女が階段から落ちた、と誰にも言わなかったし、その事を明るみに出すことを恐れた。
だから僕は「何が?」と言った。
彼女は、最初本当に悲しそうな顔をした。そして、エネルギーが消えてなくなるくらい寂しそうな表情をして、車に乗って帰っていった。

実は、僕は彼女に好感を抱いていた。
だから松の葉で彼女にちょっかいを出したのだ。

僕は彼女とその後小学校で目が合った記憶がある。
僕は少し微笑んで見せたけど、彼女はそれをやり過ごして何事もなかったかのようにまた前を向いて歩いて行った。
僕の記憶の中の彼女はそこで終わっている。

 

 

僕が見た世界 #5

2024.08.10

展示中気付きが多かった。先輩写真家のKさんが言った。
「千葉君普通だよね。」と。Kさんの言い方からネガティブな響きよりもむしろポジティブな響きが感じられたが、返答に詰まった。Kさんは逡巡する僕の様子から明確な答えが用意されていないことが分かったのだろう、また「普通なんだよな、千葉君って、千葉君って何だろうな・・・?」と言いながら会場を回った。そして、「千葉君、まだやる事あるな。まぁ俺もあるけど。」と言いながら写真集灰桜を購入してくれた。Kさんが来てくれた前日に蒼穹舎の大田さんと夕飯を食べた。その時大田さんは興味深い事を言った。「僕のやっていることなんて誰でも出来る・・・。」僕はそれを聞いてその時はよくわからなかった。どういう意味かな?とぼんやり思った。
大田さんの発言を思い出しながらKさんの言った「千葉君は普通」についてKさんが帰った後考えた。すると腑に落ちた考えが導かれた。

僕は天才ではないから、職人さんが研鑽を積んで、モノに触れた瞬間にそのモノのことが手に取るようにわかるように、僕もカメラに触れた瞬間に、目の前の被写体が写るかどうか分かるようになりたい。丁度お母さんが子供の額に手を当てて、その感触からこの子明日風邪をひくかもしれない、と触れた瞬間に我が子の全てを悟るように、カメラに触れた掌が、直感を持つ領域に入る為には、カメラに触れ、撮り、また触れ、また撮る、を繰り返していかなければならない。でもそうすれば誰でも「写真」が撮れるのだと思う。でも誰も掌の直感を得るまで研鑽を積み切れないので、ほとんどすべての人が「写真」の領域に入らない。

普通とは、誰でも出来て、でもほとんど全ての人が出来ないこと、を指すのだと思う。
僕が普通に辿り着いているかは分からないけど、Kさんの言葉は「僕が目指すべきは普通という領域だ」という事を僕に教えてくれたのだ。

清々しい気持ちになったし、痛快でもあった。
僕はカメラを触る事が生業なのだ。

以前、虻1という作品を撮っていた頃、上野で人に向けてシャッターを切っている時、いつも心臓が気持ちよかった。シャッター音が自分の中に響く度に心臓がキュンキュンした。
虻1を撮り終えるまでに何人の人をスナップしただろう、一定の緊張感の中で、僕は何回シャッターを切ったか 。
臨界点を迎えるころ僕の心臓は射精寸前だった。ある緊張感の中での相当数の反復作業。
ピークが訪れ、多分僕は写真の向こう側に入り込んだ。

あれ以来、あのような反復作業を僕はしていない。
またあの経験がしたい、というより、またカメラに触れたくなってきた。
掌の直感しか生きる道がない、とは思わないけど、そうすることで見えてくる道を歩いてみたい、とは思う。

僕は未だ何事もなし得ていない。

 

 

僕が見た世界 #4

2024.08.05

2週間の会期を終えて、次の写真作家の長谷川諭子さんにバトンタッチした。
僕は灰桜のシリーズに取り掛かる契機になったポートレートのことを思っていた。
山谷の泪橋の辺りを歩いていたら、向こうから1人の日雇いの人が歩いてきた。
僕はその人が視界に入ると寂しそうで優しそうな人だなと思った。
ふと、写真に撮りたいと思った。
僕が声もかけずにカメラを持ち上げて撮る姿勢を見せたら、その日雇いの人はコクっと頷いて自然にカメラの前で立ち止まり、そっとカメラに視線を据えた。
僕は、「そう」と小さく呟いてシャッターを切った。
写真を撮り終えて擦れ違う時微笑んだら、彼も小さく笑った。
それだけだ。でもその1カットが灰桜のシリーズを撮らせた。
一連の流れがあまりに自然だった。
どうして僕は彼に声をかけるのを躊躇ったのだろう?どうして彼はあまりに自然に立ち止まったのか?
僕はこの細やかな体験をワンネスと呼んだ。
束の間、この人と一つになった気がしたからだ。

このポートレートをプリントした時、そこにある哀愁に心が濡れた。
それから僕は、被写体まで2メートルの距離を取り、縦位置で全身像をポートレートし始めた。
僕は被写体の人達と、存在を認め合うシンプルな喜びを分かち合い始めた。

お互い今日も生きてるね、いいね、やってるね、、

そんな言葉を心で交わし合い、撮る事よりももっと大切な一期一会を楽しむ人生の挨拶を交感する事。
その先に灰桜はあった。

ある人が僕に言った。
「ねぇ、俺のロッカーの鍵持ってる?」

僕は彼の真意を知らない。
ただ僕はこの言葉をこう解釈している。
「あなたは僕の心のドアを開ける鍵を持ってますか?」と。
「持っているなら開けてくれないか?僕は鍵をなくしてしまったみたいなんだ・・・」と。

 

 

僕が見た世界 #3

2024.07.31

展示をしている。
見に来てくれた友人写真家のIが言っていた。
被写体の人達が撮られるためだけにいるわけじゃない気がした、と。
そして、被写体を撮るためだけに存在するもの、撮りたい画作りに協力して当然の人やもの、と自分自身思ってしまっていないか疑うことがある、と。
その話を聞きながら、あることを思い出した。
DYUF!という作品を撮影していた頃、ある女性に言われた。
被写体の人は千葉くんの虚栄心を満たすためにいるわけじゃないと思う、と。
多分僕が撮影中にどれだけの熱量を注ぎ込み、どれだけ苦労して撮っているかを滔々と述べ、そしていかに自分が凄いことをしているかを饒舌に話すのをみて、そこに傲慢の響きを簡単に嗅ぎ取ったからだと思う。
彼女は、釘を刺すように、千葉くんのような撮影方法をする人とは友達になれないかもしれない、と言った。
何故なら彼女は僕以外の僕と同じ撮影方法をする人に出会い頭に撮影され、さらにその人は撮った後に逃げて行ったらしい。

せめて、胸を張ってね、と彼女は最後に言った。

僕はその後もやめる事なくDYUF!を続け、力尽くで扉をこじ開け、虚栄心を満たし続けた。

柔らかさが大事だと今は思う。
暴力めいたものを行使する気は今はない。
スナップは動物になる行為だ。
合意を得てからでは消えてしまう何かは確実にあって、その何かに触れるために合意を得ない撮影方法を今もありだと思う。
ただ、その行為は今の僕ではないからもうやらないだけだ。
時々現れては消える、生の気配を開示してみたい、その欲求は僕には魔物だった。
一瞬見え隠れする生の気配に触れるため、僕はきっとスナップをやっていた。
あの頃の全ての行為を否定する気はない。
領域に入る行為は時に恍惚だった。
恍惚の中、目にした群像を美しいと思っていた。

ただ、写った写真に愛が希薄だったのは確かだ。
動物でありながら、愛が匂う写真を撮ってみたいと思う。

森羅万象は等価だ。
人も花も、虫も犬も、皆一様に等価だ。
あらゆる対象に同じ愛を注げるのだろうか?
僕のように世界をより良く伝える技術の無い人間には、エネルギーを作る精神性の作用はとても大切だ。
巧さから最も遠い白痴の領域で写真を撮りたい。

生きてるね、やってるね、、
森羅万象と一期一会の契りを心で結ぶこと。

届くだろうか?
僕の呼吸は例えば数年前に庭に咲いた向日葵に、届いていただろうか?

 

 

僕が見た世界 #2

2024.07.24

展示が始まった。
最後の人を撮影してから10年が経過している灰桜のシリーズ。
時間は確実に写真を熟成させる。
蒼穹舎の大田さんが気になる事を言った。

「熟成しているってことは生じゃないってことだよね」

その通りだと思う。でも今更ながら生って何だろう?と考えた。
生(なま)っていうのは、きっと苦しいって事だと思う。
写真が生(なま)っていう事は今現在生きている事の苦悩が写るっていう事だと思う。
それは撮影者も被写体も、その状況に関与する全ての苦悩を含んで、そうだと思う。

展示会場の壁に掛かった写真は、苦悩が揮発して軽やかで、柔和で、陽だまりのように明るい。

そうか、と思った。
生じゃないっていう事は、熟成しているという事は、苦悩から自由になり解脱しているという状態かもしれない。
だからこんなに写真が軽く明るいんだ・・・、と思った。

皆、仏みたいだなぁ・・。

僕は展示会場で一人呟いた。

 

 

僕が見た世界 #1

2024.07.20

展示が始まる。今年も蒼穹舎で。
友人の写真家Tが「千葉君ってなんで写真をジャンル分けするんかなぁ?」と言って
清水コウもそれに同意したらしい。
確かに僕はスナップ、風景、ポートレート、私写真、、そんな具合に写真を区分けしてやってきた。
Tはさらに続けて、「写真は写真じゃんねぇ?」と言ったらしい。
実はその言葉で僕の体は熱を帯びたのだ。「写真は写真」、その響きにジトっと汗を掻いた。
写真を始めた頃、よくわからないから何でも撮った。そして、何をどう撮りたいか、明確な
ヴィジョンもないから色々な被写体を、色々な距離で、そして色々なタイミングでよく撮った。
実は今写真専門学校時代に撮っていた写真をネガスキャンしているのだけれど、僕はその作業中にいつも感動している。
なんて自由なんだろう、なんて寂しいんだろう、なんて透明なんだろう、、
僕は、撮影を重ねていくうちに明確に一つの信念が生まれていく。
「顔を撮るべきだ。」
その信念が強すぎるばかり、僕は自分を結果的に制約していく事になる。
そして僕は不自由な写真家になった。

僕はその呪縛をどう振り払おう?ともがいていた。
その最中に僕へ投げかけられたTの言葉。
「何撮ったって写真は写真。」
それを敬愛するTから投げかけられたことも大きかったかもしれない。
「何撮っても良いのかなぁ?顔じゃなくても良いのかなぁ?
花を撮っても、人を撮っても、海を撮っても、庭を撮っても良いのかなぁ?」
僕は清水コウにそんなことを聞いた。
清水は頷いていた。

「灰桜」は2007~8年頃から2014年までの間、路地で出会った人たちをポートレートしたシリーズだ。
写真は僕の感じたものがそのまま表出するから面白い。
その人を僕が尊いと感じたなら、写真には尊さのエネルギーが宿る。
その人がダメに見えたら、写真に写るその人はダメに写る。
でもダメでも尊くても、僕の行う作業は一つだ。
それは彼らの心のドアを誠実にノックすることだ。
いつもいつもドアは開かない。
でも時々開くのだ。
そして開いたら何があるかと言えば、優しい陽だまりのような物がある。
でもそれも意外に普通なのだけれど。

僕は展示会場の始まりに、新しく作った写真集の終わりに、ある一つのフレーズを書いた。
それは撮影中ある被写体に投げかけられた言葉だ。
皆さんはこの言葉を聞いてどう思うんだろう。
出来れば会場に来て、20数枚のポートレートの前で、彼らの心のドアを優しくノックしてみて欲しいと思う。

心のドアを見る心の目があれば何を撮ったって写真なのだ。
写真は開かれている。

 

 

新コーナー「ブログ」

2024.07.20

例えば徒然草のように、由無し事を書き連ねられたらなぁ、と思います。
その週に起きた具体的な出来事や、精神的な出来事を僕を通して書き表していくのですが、
出来事も、それによって起こる現象も、その姿に”あるがまま"ということなど存在しないように、
写真も僕を通過したimageしか撮れません。
僕は僕が見た世界しか知り得ないのです。
少し写真から離れていた気がします。
段々と寂しく思うようになってきたので、写真のことを思いながら、日々の出来事を少しずつ書き下ろしていこうと思います。
いつも念頭に写真があります。
これから書き連ねていく出来事が、いつも目の奥に息を潜める写真を支え、時に寄り添い、一つになって零れ落ちるくらいに実る事を思いながら、さて始めてみましょう。