■ 読書感想29  白石ちえこ「鹿渡り」

優しい。
そして、湿った呼吸の一番奥にある、塩っぱい体内の匂い。
風と雪の匂い。
海の匂いと動物の匂い。

朧げな雪の向こうにある淡い太陽の霞んだ光と、その中で深々と降る雪。
夜気と、白石さんの大気と同化しようとする念の力。
その中を自分たちのペースで通り過ぎる鹿の群れ。

荘厳で静かな野生の時間。

北海道で生まれ育った僕は、雲の向こうに太陽が透けて見えると、細やかで幸せなある昼下がりを憶い出す。

遊びに行こうと靴を履いていると、
背中の方から母親が「雪が深いから家に居なさい」と僕を優しく諭し、
僕はストーブで掌を暖めて、窓の向こうのそのまた雲の向こうの朧げな太陽をぼんやり眺めるのだ。

ただこれだけのことだけど、
何か僕の脳裏に強く幸せな時間として印象付いている。

僕たちの人生は有限で、この地球もあらゆる場所も時間も有限で、
つまり全ては普通なのだ。
北海道に雪が降り、そこに鹿が渡り、
そして僕は太陽の記憶を持ちながら、
自宅でコーヒーを飲む。
皆一様に、営みを持つのだ。
自然な営みを持つ幸せ。

僕は一つだけ思う。

世界のあらゆる営みが自然で悪意から自由であって欲しい、ということを。

 

白石ちえこ「鹿渡り」  /  2020年10月5日発行  /  蒼穹舎