■ 番外編01   牛垣嶺氏との往復書簡

 

牛垣さんこんばんは。

僕は普遍を 一本の大きな河 と捉えています。

河への道は無数にあり、河との関係の持ち方も人の数だけあると思います。
でも河は一本。

僕は、願わくば、この一本の河を撮る写真家でいたい。
僕が皆と逆転しているのは、
皆はこの河への道を撮り、河との関係の持ち方を撮る。
でも僕は河自体を撮ろうとしている。
自然皆は河の感じ方は人それぞれだと解釈し、
僕は河の感じ方は一つだと思っている。
だから皆は河へのアプローチは無数で、
僕は河へのアクセスの仕方はたった一つ。

要点は、河は肉眼では見えない。
だから皆は多彩な河への道を無数に撮ることにより、見えない河を浮き彫りにする方法をとり、
僕は、猪突猛進、見えない河をどうにか見ようとする。

河とは何でしょう?
河とは、

あなたは誰で私は誰か?

という永遠の問いかけで、
あなたも私も本来ないのだから、
誰 ということだけ残る。

誰 って 何 ですか?

この問いかけが僕が写真を撮る動機です。
誰って何か?
僕はこの答えは写ると思っている。
でも皆は写らないと思っている。
感じるしかないものを目を通して感じるか、
感じるしかないから浮き彫りにして感じるか、
答えはこのどちらか。

僕はやってみたいです。
目を通して感じたい。
これが僕の写実の核心です。

 

 

こんばんは。

河の例えとても面白いです。
千葉さんの言うとおり、河の道やその関係の持ち方を撮り、見えない河を浮き彫りにしようとする写真家は多いと思います。
そして私もその部類に入るのでしょう。
大きい河を撮りたいと思っていますが、どこかで写らないものだと思っていると思います。つまり浮き彫りにするしかないと。
そしてその道や感じ方は人それぞれだと。

物も人もうつろいます。
淀むことがないのも普遍ですね。
私は冷めているのでしょう。それを変えようとか止めようとは思いません。
移ろいが真理ならば受け入れて、それを撮るだけです。

河とはなにか?誰とはなにか?
難しい問いですが、
その問いの先にある、
感じるしかないものを写す事が出来るのならば、私も見てみたいと思います。
もしかしたらそれは1枚で完結できるものなのかもしれません。それは分かりません。

千葉さんなら「言葉」でもその見えない河を指し示す事ができるのではないかなと、今ふと思いました。
これは受け流してもらってかまいません。

 

 

誰とは何か?

人は人を特定したいと思います。
人は抽象的な生き物です。
移ろいやすく、不安定です。
だからきっと自分という存在の支えを必要とするのでしょう。
あなた という概念が崩れたら、その前に立つ 私 も音を立てて崩れます。
目の前の確からしさが消えた瞬間、
全ての確からしさが消えるのです。

確かなものなどあるのでしょうか?

河は目には見えません。
感じるしかないのです。
あなたは誰で私は誰か?
この問いかけはつまり、関係 です。
誰? とは、確からしさを求める心です。
関係の中に確からしさを求める喘ぎが河であり、
だから河とは、魂であり、もっと根源的にはエネルギーみないなものです。

僕たちは写真で、エネルギーを写すのです。
だから写真を感じるとは、エネルギーを感じることです。
絵面を鑑賞することではないのです。
それは先ず第一義的に。
ただ、本質的にはエネルギーを写しますが、
エネルギーは目には見えないので属性的に絵面を伴います。
これが写真です。
写真は結局絵面からしか判断出来ない、という意見は本当だと思います。
ただそれは、エネルギーを伴うこと前提です。

感じるしかないものを写せるか?

答えはYESであり、
ではどう写すのでしょうか?

絵面とエネルギーが一致することです。
絵面とエネルギーがぴたっと一致し、
その写真が撮影者とぴたっと一致すること。

これが、感じるしかない河を写す方法です。
僕が考え得る、究極の写真です。

 

 

こんばんは。
河を撮る方法受け取りました。ありがとうございます。
何度も読み返しています。
が、やはり難しく、今まで感じるしかないと思っていたものなので、まずは写すことが出来る前提に立たなければなりません。
直ぐには難しくても、でも自分の中で少しベクトルが変わったような気がします。意識が向きましたから。